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さらば味園ユニバースビル、「音楽の神」が見守ったラストギグ

さらば味園ユニバースビル、「音楽の神」が見守ったラストギグ

2025年7月5日、大阪・ミナミは「一つのこと」を抜かせば、いつもの週末だったに違いない。 昭和レトロなネオンがともる千日前で、70年もの歴史を刻んだ巨大娯楽施設「味園ユニバースビル」。同地が、地下にあるライブハウス「味園ユニバース」でのライブ開催を最後に、ビルの運営を終えた。  Photo: Kana Yoshioka味園ユニバースビルの外観 6月28日のEGO-WRAPPIN'、6月30日の渋さ知らズオーケストラのライブを経て、7月5日に味園ユニバースでラストライブを行ったのは、FINALBY ( )(ファイナルビーエンプティ)。空間表現映像チーム「COSMIC LAB」と、バンド・BOREDOMSの∈Y∋、アートエンジニアのHORIO KANTA、音響プログラマーのNIIMI TAIKIによるユニットだ。 ファイナルライブを「COSMIC LAB presents FINALBY ( ) Live at 味園ユニバース Final supported by AUGER」と題して、味園ユニバースへ奉納の儀式をささげてくれた。 そんな7月5日、最終日の様子を本記事ではレポートする。 Photo: Kana Yoshioka味園ユニバースの入り口 味園ユニバースビルへささげた「龍」の壁画 ライブ会場の外側の壁には、BAKIBAKIとMONによるアーティストチーム「DOPPEL」が味園ユニバースビルへささげた、見事な「龍」の壁画が数十メートルにわたって描かれていた。MONいわく「欲望の龍」をテーマとしているという。モノクロかつ太い線で描かれたその龍は、雑多な光景の街の中で、まるで「ワシが主人公」といわんばかりに、力強く存在感を放っていた。 Photo: Kana YoshiokaBAKIBAKIとMONによるアーティストチーム「DOPPEL」が描いた龍の壁画 Photo: Kana YoshiokaBAKIBAKI(左)とMON 味園ユニバースビルの前を通る人たちの話す声が聞こえる。 「味園、今日で最後なんだよね」「寂しくなるわ」……。 この日、この通りで何度この言葉を聞いたことか。誰もが歩く速度を緩めては、顔を上げ、巨大なビルを目に収めていく。大阪の人々にとって、いかに記憶の中に刷り込まれていた場所であるのか、その光景を見て改めて知った。 味園ユニバースビルの70年の歴史の軌跡を紹介するアート展 味園ユニバースでは、7月2日から5日までの間、「AUGER ART ACTION 『味園大宇宙展』 presented by COSMIC LAB」と題して、味園ユニバースビルの70年の歴史の軌跡を紹介するアート展を開催していた。 Photo: Kana Yoshioka「AUGER ART ACTION 『味園大宇宙展』 presented by COSMIC LAB」全景 展覧会では、1956年に創業して以来、世界最大級の大キャバレーをはじめ複合レジャー施設として奇想天外なアイデアを次々と実現してしてきた、同地の貴重な資料が集結。創業者が描いたキャバレーの手描きのスケッチをはじめ、UFO型の「空中ステージ」の上で踊る大勢のダンサーやバンドの姿を捉えた写真、「昭和レトロ」なデザインのチラシやポスターなどが展示されていた。「全ては現実で起きていたんだ」と実感した。 Photo: Kana Yoshioka創業者が描いた、キャバレーの手描きのスケッチ Photo: Kana YoshiokaUFO型の「空中ステージ」の上で踊る大勢
閉館直前、千日前の奇跡「味園ユニバースビル」70年の歴史を振り返る

閉館直前、千日前の奇跡「味園ユニバースビル」70年の歴史を振り返る

大阪のアイコン的な娯楽ビルとして、約70年間存在してきた「味園ユニバースビル」が、2025年7月5日(土)を最後に全館営業終了する。昭和時代に誕生した文化遺産ともいうべき建物がなくなってしまうことに、寂しさを感じてやまない。しかし、味園ユニバースビルの歴史を改めて知ると、戦後まもなくの頃に誕生したビルには奇想天外で驚くべきアイデアと夢が詰まっていたことが分かる。 味園ユニバースビルがある大阪・難波の千日前は、刑場があった江戸時代を経て、刑場が廃止となった明治時代には見せ物小屋や演芸場などが並び、演じる人々が集まる地となった。1912(明治45)年に起きた大火事「ミナミの大火」で大被害を受けたものの、後に「娯楽センター」「大阪歌舞伎座」「大阪劇場」などの施設が誕生し、娯楽を求める人々が集まる繁華街としてさらに成長を遂げた。 第二次世界大戦の「大阪大空襲」で再び焼け野原と化したにもかかわらず、その地に根付いていた娯楽の火は消えることなかった。戦後は吉本新喜劇などが上演される新たなお笑いの拠点「なんば花月」ができ、大阪発の芸能や娯楽発祥の地となり、現在に至る。 Photo: Kisa Toyoshima味園ユニバースビルの外観 「日本一の大キャバレー」として誕生した味園ユニバースビル 味園ユニバースビルが誕生したのは、1956年。戦後10年たたないうちに出来上がった巨大ビルは、最初は「ダンスホールユニバース」と呼ばれた地下のダンスホールから始まり、その1年後に2階から5階まで吹き抜けのキャバレー「ユニバース」が始まり、エネルギーの満ちあふれた日本の高度成長期とともに、日本一の大キャバレーとして人気を呼んだ。 画像提供:COSMIC LAB誕生当初は日本一の大キャバレーとして人気を博した 現在、味園ユニバースビルに拠点を構え、味園の歴史の資料を管理している映像チーム「COSMIC LAB」のC.O.L.Oは、こう話す。 「オープン時に作られたチラシやポスターには、​​募集したホステスの数が3000人とあって、キャバレーは2階から5階までが吹き抜けといったかなりぜいたくな造りでした。天井には、宇宙空間のようにまばゆい何万個もの照明が輝いていて、UFOのような円盤型をした空中ステージが2機、通常の形状をした空中ステージが3機と、合計5機のステージが4階に収納されていたといいます。 店が始まると3機のステージは降ろされ、天井にある円盤型のステージに出演者が乗って降りて演奏をし、演奏が終わると次の演奏者が乗ってまた登場する、といったことをしていました。それを敗戦国の日本で、味園ユニバースビルの場合は自社で、DIYで作っていましたから驚きです。アメリカの有名な『LIFE』誌に、1962年に見開きでキャバレーが紹介されたこともあります」(C.O.L.O) 画像提供:COSMIC LABオープン時に作られたポスター 画像提供:COSMIC LABUFOのような円盤型をしたステージなど、独創性が光る 画像提供:COSMIC LAB円盤型のステージ キャバレー全盛期だった1960〜1970年代の頃は、ジャズやマンボ、ラテン音楽などが人気を呼んだ。ミュージシャンの登竜門としても栄えた千日前では、「道頓堀ジャズ」というジャンルが登場したように、オリジナルの音楽が誕生した時代でもあった。 またその時期に、大阪のローカルテレビ局では味園ユニバースビルのCMが流れるようになり、まだ当時は幼かったC.O.L.Oは、CMを観た時に衝撃を受けたという。 「僕ら世代の大